5/2 公開書評会の課題図書の感想文。
2015年 05月 05日
書評部の活動では、事前に本を読んだ感想をアンケート用紙に書き込んで会に参加しています。いったん文章化して、心の整理をしてから語り合うのです。
ちなみに今回の課題図書の感想の一部をピックアップしてご紹介します。
●『毛のない生活』(ミシマ社)
「ふつうの暮らしは、なんてすてきだ」。本文中、そんな言葉があった。本当にそうだ。私たちは元気なとき、健康のありがたさを忘れている。いや、気づかずにいる。いつだってそう。大切なものほど、失ってその価値を知るのだ。ミルコさんはこうも綴る。
「病気になるときはなるということ。起こるときは、起こる。そのとき何をどう選びとるかは個人の自由で、そこで落ち着いた選択をし、選んだら、気の済むまでそれとちゃんと向き合うのである」。 たぶん、それは病気の治療にだけ当てはまるのではなく、人生のすべての選択に言えることなんじゃないだろうか。
自分で選んだことから逃げずに、とことん向き合うことの大切さ。そしてどんなときもたくましく生き抜く強さ。そんな美学がつづられていたように思う。この本は闘病記でありつつ、ミルコさんが「自分らしい生き方」を見つけて再び歩き始める再生の書でもあるのだ。(高倉優子)
病気にかかりたいと願っている人はほとんどいないと思う。つらい体験はなるべくしたくない。でも、病気、失敗、人との別れ……世の中にはままならないことがたくさんある。どんなに注意していていも、いつも一生懸命頑張っていても、ふと良くないことが起きる。
ミルコさんは角川書店から幻冬舎に移ってヒットをとばした、めちゃくちゃキラキラの編集者だ。きっと幻冬舎時代、たくさん褒められ、あちこちで人に必要とされて生きてきたと思う。それはもちろん相応の仕事をしたからだ。しかし、退社とがんの発覚が同時にきた。
仕事なんかできない。髪の毛まで抜ける。最悪。でも、ミルコさんは言う。会社をやめてよかった、いっそ小さくなってやろう。前へ進むばかりが人生ではない。上を見るばかりが成長ではない。どん底に落ちたときこそがチャンスなのだと、著者の生と痛みをもって教えてくれる本だった。(麻田江里子)
『毛の力 ロシア・ファーロードをゆく』(小学館)
読み始めてすぐ2つの驚きがありました。まずミルコさんの名前。てっきりペンネームだと思っていたけれど「ロシア語に由来」と書いてあって、本名だったのかと知りました。次にタイトルの「毛」の意味。人間の毛のことだと思っていたのに、クロテンの毛だったなんて! 2度ビックリです。
ロシアの歴史や政治的要素など、正直、難しい部分もありましたが、この本を読まなければ知らないことがいっぱいありました。
一番すっと心に入ってきたのは「身の丈分」という言葉。私はこれまで身の丈分=収入に見合ったことだと思っていましたが、間違っていました。自分自身の生活を見直し、本当の意味で「身の丈分」で暮らせたらいいな。そんなことを気づかせてくれた本でした。(加来亮子)
すごい経歴を持ったかたなのに…ハイブランドのスーツを着て外車を乗り回していたかたなのに…。「ん?何だ、この優しく流れている雰囲気は」というのが最初の感想でした。こんな言い方は失礼かもしれませんが、嘘のない素直な文章の中に人柄が表れているようでした。
大きな病を乗り越えられたことで、様々なコトやモノがそぎ落とされたのであろうミルコさんの言う「身の丈分」という言葉の重み。「自分が抱えきれる分だけで暮らしましょう」とかいつも偉そうに言っている自分が恥ずかしくなりました。
クロテンの話もロシアの話もジェームス・ディーン似のタンクトップ(笑)もおもしろかったけど、「つぎのひと、くる。」の章にガツンと頭を叩かれた感じです。この本に出会えたことに、「つぎのひと、くる。」の言葉に出会えたことに感謝してやみません。ミルコさんの言うように「つぎのひと、くる。」のひと言には大切なことが全部入っていると思います。お片づけやお掃除を「思いやり」だと信じて疑わない私には、これほど的確に思いを凝縮してくれた言葉に出会えて本当に幸せでした。
決まった場所にモノを戻すことが、使った椅子を元に戻す習慣が、洗面台に落ちた髪の毛をふき取る行為が、どれだけ他人や自分に優しさを与えていることか。まさに「つぎのひと、くる。」です。自分のことだけを考えていればいいという、いろいろな社会現象を思い起こしたりもしました。例えば、電車の中でのお化粧、モンスターペアレンツ、ごみ屋敷…。人はひとりでは生きていけないのだということを再認識させてくれた本でもありました。「つぎのひと、くる。」バンザイ\(^o^)/(臼井由美)
※最後に当日参加してくださった、フォトグラファーの慶子さんがSNS上に書いてくださった書評です。とても素敵だったのでご本人の了承を得て、掲載させていただきました。
山口ミルコさんとお会いして、早3日。ミルコさんの2作目『毛の力』を読みました。それは『柔らかい金』と言われたクロテンの毛皮が、ロシアや中国でいかに扱われたか、その歴史からアクセスして、なんとクロテンを追いかけてロシアの先住民の村に潜入取材してしまう、なんともミルコさんらしい探求のエッセイでした。
その中で『つぎのひと、くる』という言葉がでてきます。先住民の人たちは毛皮や肉をとるために獣を殺したら、必要なものだけいただいて、あとは残しておく。すると、その残った肉をたべに他の獣がきて、さらに残った骨などは土に還って植物の栄養となり命が回ってゆく。
何事も自分だけのことにせず、つぎのひとが来ることを考えて行動するのだ、と。
それはトイレを使って汚したらキレイにしておくのも『つぎのひと、くる』。
資源を取りすぎないよう注意して枯渇させないのも『つぎのひと、くる』。
地球と調和して生きるための常識というべき知恵でしょうか。日本の心に通じるところがあると思いました。私の最近思うことの一つに、必要ないなら好奇心だけで獲得せず、本当に欲しい人がそれを得られたら良い、と思っています。
それは、例えば美味しいもの。本マグロが美味しいからといって、猫も杓子も食べたら本鮪はいなくなってしまいます。アイドルに会える、そんなチャンスも本当に自分の会いたい人でなければ、他に会いたくてたまらない人がいるのだから、その人のために応募しない。
この世の中、スゴイことってゴロゴロしてるけど、自分が本当に必要と思わないのに首をつっこめば、本当に必要とする人のチャンスがなくなる、そう思うと、本当に自分に必要なことが寄ってこなくなる気がするのです。だから、慎重に、差し出されたチャンスは自分に必要か、求めていることなのか、自分に確かめてから行動することにしています。
ちなみに今回の課題図書の感想の一部をピックアップしてご紹介します。
●『毛のない生活』(ミシマ社)
「ふつうの暮らしは、なんてすてきだ」。本文中、そんな言葉があった。本当にそうだ。私たちは元気なとき、健康のありがたさを忘れている。いや、気づかずにいる。いつだってそう。大切なものほど、失ってその価値を知るのだ。ミルコさんはこうも綴る。
「病気になるときはなるということ。起こるときは、起こる。そのとき何をどう選びとるかは個人の自由で、そこで落ち着いた選択をし、選んだら、気の済むまでそれとちゃんと向き合うのである」。 たぶん、それは病気の治療にだけ当てはまるのではなく、人生のすべての選択に言えることなんじゃないだろうか。
自分で選んだことから逃げずに、とことん向き合うことの大切さ。そしてどんなときもたくましく生き抜く強さ。そんな美学がつづられていたように思う。この本は闘病記でありつつ、ミルコさんが「自分らしい生き方」を見つけて再び歩き始める再生の書でもあるのだ。(高倉優子)
病気にかかりたいと願っている人はほとんどいないと思う。つらい体験はなるべくしたくない。でも、病気、失敗、人との別れ……世の中にはままならないことがたくさんある。どんなに注意していていも、いつも一生懸命頑張っていても、ふと良くないことが起きる。
ミルコさんは角川書店から幻冬舎に移ってヒットをとばした、めちゃくちゃキラキラの編集者だ。きっと幻冬舎時代、たくさん褒められ、あちこちで人に必要とされて生きてきたと思う。それはもちろん相応の仕事をしたからだ。しかし、退社とがんの発覚が同時にきた。
仕事なんかできない。髪の毛まで抜ける。最悪。でも、ミルコさんは言う。会社をやめてよかった、いっそ小さくなってやろう。前へ進むばかりが人生ではない。上を見るばかりが成長ではない。どん底に落ちたときこそがチャンスなのだと、著者の生と痛みをもって教えてくれる本だった。(麻田江里子)
『毛の力 ロシア・ファーロードをゆく』(小学館)
読み始めてすぐ2つの驚きがありました。まずミルコさんの名前。てっきりペンネームだと思っていたけれど「ロシア語に由来」と書いてあって、本名だったのかと知りました。次にタイトルの「毛」の意味。人間の毛のことだと思っていたのに、クロテンの毛だったなんて! 2度ビックリです。
ロシアの歴史や政治的要素など、正直、難しい部分もありましたが、この本を読まなければ知らないことがいっぱいありました。
一番すっと心に入ってきたのは「身の丈分」という言葉。私はこれまで身の丈分=収入に見合ったことだと思っていましたが、間違っていました。自分自身の生活を見直し、本当の意味で「身の丈分」で暮らせたらいいな。そんなことを気づかせてくれた本でした。(加来亮子)
すごい経歴を持ったかたなのに…ハイブランドのスーツを着て外車を乗り回していたかたなのに…。「ん?何だ、この優しく流れている雰囲気は」というのが最初の感想でした。こんな言い方は失礼かもしれませんが、嘘のない素直な文章の中に人柄が表れているようでした。
大きな病を乗り越えられたことで、様々なコトやモノがそぎ落とされたのであろうミルコさんの言う「身の丈分」という言葉の重み。「自分が抱えきれる分だけで暮らしましょう」とかいつも偉そうに言っている自分が恥ずかしくなりました。
クロテンの話もロシアの話もジェームス・ディーン似のタンクトップ(笑)もおもしろかったけど、「つぎのひと、くる。」の章にガツンと頭を叩かれた感じです。この本に出会えたことに、「つぎのひと、くる。」の言葉に出会えたことに感謝してやみません。ミルコさんの言うように「つぎのひと、くる。」のひと言には大切なことが全部入っていると思います。お片づけやお掃除を「思いやり」だと信じて疑わない私には、これほど的確に思いを凝縮してくれた言葉に出会えて本当に幸せでした。
決まった場所にモノを戻すことが、使った椅子を元に戻す習慣が、洗面台に落ちた髪の毛をふき取る行為が、どれだけ他人や自分に優しさを与えていることか。まさに「つぎのひと、くる。」です。自分のことだけを考えていればいいという、いろいろな社会現象を思い起こしたりもしました。例えば、電車の中でのお化粧、モンスターペアレンツ、ごみ屋敷…。人はひとりでは生きていけないのだということを再認識させてくれた本でもありました。「つぎのひと、くる。」バンザイ\(^o^)/(臼井由美)
※最後に当日参加してくださった、フォトグラファーの慶子さんがSNS上に書いてくださった書評です。とても素敵だったのでご本人の了承を得て、掲載させていただきました。
山口ミルコさんとお会いして、早3日。ミルコさんの2作目『毛の力』を読みました。それは『柔らかい金』と言われたクロテンの毛皮が、ロシアや中国でいかに扱われたか、その歴史からアクセスして、なんとクロテンを追いかけてロシアの先住民の村に潜入取材してしまう、なんともミルコさんらしい探求のエッセイでした。
その中で『つぎのひと、くる』という言葉がでてきます。先住民の人たちは毛皮や肉をとるために獣を殺したら、必要なものだけいただいて、あとは残しておく。すると、その残った肉をたべに他の獣がきて、さらに残った骨などは土に還って植物の栄養となり命が回ってゆく。
何事も自分だけのことにせず、つぎのひとが来ることを考えて行動するのだ、と。
それはトイレを使って汚したらキレイにしておくのも『つぎのひと、くる』。
資源を取りすぎないよう注意して枯渇させないのも『つぎのひと、くる』。
地球と調和して生きるための常識というべき知恵でしょうか。日本の心に通じるところがあると思いました。私の最近思うことの一つに、必要ないなら好奇心だけで獲得せず、本当に欲しい人がそれを得られたら良い、と思っています。
それは、例えば美味しいもの。本マグロが美味しいからといって、猫も杓子も食べたら本鮪はいなくなってしまいます。アイドルに会える、そんなチャンスも本当に自分の会いたい人でなければ、他に会いたくてたまらない人がいるのだから、その人のために応募しない。
この世の中、スゴイことってゴロゴロしてるけど、自分が本当に必要と思わないのに首をつっこめば、本当に必要とする人のチャンスがなくなる、そう思うと、本当に自分に必要なことが寄ってこなくなる気がするのです。だから、慎重に、差し出されたチャンスは自分に必要か、求めていることなのか、自分に確かめてから行動することにしています。
#
by girls-book
| 2015-05-05 22:08
| 活動日誌